稲庭饂飩が届いた。
以前の仕事を辞めてもう五年が過ぎた。
そんな今でもK君から、K君と言うよりK社長から毎年盆暮れに何かしら送って頂いて居る。
K君とは以前にもこのブログに書かせて貰ったが、茨城県日立市に赴任する前に、まだ愛川に会社があった頃、仕事量が増えて忙しく人が足りない時期に日立市から何人か応援を貰っていた。
そんな何人かの中で小生たちの班に振り分けられて入って来たのがK君と、もう亡くなったと聞いたSさんだった。二人とも良くやって頂いた。
応援に来た人たちは会社の近くにある独身寮に泊まって居て、追い込みで遅くまで残業をしたある日の事、その頃行きつけの居酒屋に食事に誘った。
それが仕事以外でのK君との出会いである。
Sさんは会社の社員だったがK君は外注先の社員だった。そんな引け目が有るのか物静かな口調と仕事でもキチンと綺麗な仕事をし、責任感のある人だった。
そんな人柄が好きで応援が終わるまでの間に何度となく食事に誘った。
その後会社は合併で愛川の会社は無くなり横須賀に小生は赴任した。横須賀に五年間居りその後日立市に赴任した。
その赴任先の会社にK君は外注作業員として入っていた。赴任する前は一組だった組みが、小生が組長に就いた為に二組になったがK君は、小生の組みでは無くもう一組の方だった。元々居た組長が仕事の出来るK君を手放さなかったのだろう。
組みこそ違うが大きな仕事がある時は、何度かK君とは一緒に仕事をして貰った事もあった。
何年かたった時に、主任が定年になり退職した。後釜の主任は?と言う事になり、小生が任される事となった。
当然の事ながら現場での仕事は全て主任の責任で進めて行く事になる。日常的には組長に任せて居れば良いと思うが、大きな仕事や難しい仕事、現地トラブルなどは待った無しで対応しなければ成らない。
そんな時は小生が陣頭指揮をする事も多かった。そんな時の精鋭メンバーとして何度もK君には窮地を救って貰った。
何年の頃だったか働き方改革で製造業では派遣社員は使え無くなった。この時に外注社員だったK君は切られる事となった。
その後K君は会社を起こして社長になったので有る。
もちろん会社を起こして社長になってからも、事ある毎に作業応援をお願いし、確実な仕事とその責任感から、彼を信頼する顧客や外注先は多い。
そんな事から小生が退職するまで、事ある毎に一緒に仕事をして貰った。
そして辞めた今も盆暮れには気に掛けて頂いて居る事が嬉しい。
数ヶ月前に電話で話した時は忙しいと言って居たが、益々彼の会社が発展する事を祈る、、、。
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